【調べメモ】戦国時代の田斉(嬀斉)について 田氏代斉

1 「田氏代斉」とは

・姜斉の宰相であった嬀姓田氏が主君の康公を追放し、周王室の認定を得て代わって諸侯となったもの。(田斉)
・国号は変更せず「斉」のままとした。


(1)簒奪の経緯

・(姜斉の康公の)「立ちて十四年、酒と婦人に淫し、政に聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。」
(『史記』田敬仲完世家)
【斉太公世家と「海上(海濱)に遷」した時期が異なる】

 「(康公の)十九年、田常の曾孫田和、始めて諸侯と為る(田斉の太公)。康公を海濱に遷す。」
 (『史記』斉太公世家)

 ・「康公の十九年、田和、立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。」
(『史記』田敬仲完世家)

・前379年
 ・「(姜斉の康公の)二十六年、康公卒す。呂氏、遂に其の祀りを絶つ。田氏、卒に斉国を有ち、 斉の威王と為る。天下に強し。」 
 (『史記』斉太公世家)

「是の歳、故の斉の康公卒す。絶えて後無し。奉邑は皆田氏に入る」
(『史記』田敬仲完世家)

 

 

2 なぜ姜斉を簒奪できたのか

(1)姜斉の有力氏族として

 ・田乞(田釐子)
  田和の曽祖父、斉に亡命してきた陳完から6代目
  ・「小斗大斗」により民の人気を高めた。
  ・子の田盤(田襄子)の代にかけて、有力な大夫を追い落とし、一族を各地の領主にした。

 
(2)周王室への外圧 三晋との連携

 ・戦国末の秦による諸国の併合と異なり、周王の権威が残っていたため、形式的にでもその承認を要した? 
 ・三晋と田氏がお互いに助け合って諸侯としての認定を得るべく活動した?
 
・前485より新しい?(田和の曽祖父の代)
 「田襄子、既に斉の宣公に相たる、三晋、知伯を殺し其の地を分かつ。襄子、其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為さしむ。三晋 と使いを通じ、且に以て斉国を有たんとす」
(『史記』田敬仲完世家)


・404年 長城の戦い
 (斉と三晋の戦い、三晋の勝利)

 ・「三晋の大夫は斉に入り、斉の田和・田淏と溋門の外で会盟し、斉は長城を修築してはならず、廩丘を攻撃してはならないとされた。

 ・晋の烈公は長城の戦いの戦果である斉の捕虜や首級を周の威烈王に献上し、斉の康公や魯の穆公・宋の悼公・衛の慎公・鄭の繻公をともなって威烈王に朝見した」
(清華簡『繋年』第22章)

 Wikipedia 長城の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


・前403
 ・周の威烈王により三晋の韓・魏・趙が諸侯として認定。
 ・前453年に三家が智氏を滅ぼしてから、正式に認定されるまで50年かかっている。

・前389
 「太公、魏の文侯と濁澤に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯、乃ち使いをして周の天子及び諸侯に言わしめて、 斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請う。周の天子、之を許す。」
(『史記』田敬仲完世家)

・前376
「(田斉の威王の)三年、三晋、晋の後を滅ぼして、其の地を分かつ。」

(『史記』田敬仲完世家)

 

参考
水野卓「春秋時代の周王 その統治権と諸侯との関係に注目して」2015
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00100104-20150700-0027.pdf?file_id=112718

 

3 なぜ姜斉の国号をそのまま継いだのか【不詳】

・『史記』は結果だけを記載
 「康公の十九年、田和、立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。」(陳〜世家)

・「晋」を分割せざるを得なかった三晋に対し、田氏は「斉」をまるごと継承できた??(ゆえに一邑の名称を国号にする必要がなかった?

・三晋の韓、魏、趙は氏だけど、そもそもが土地に由来?

 

【23.11.13追加】

 そもそも地名が先にありき?

 国号を気にするのは易姓革命の概念ができたから?(前の王朝名が残ってるとおかしい)

 三晋の趙、韓、魏は氏だが地名由来のもの?

 

4 田斉のその後

・前380年(東周安王の22年、姜斉の康公が没した翌年)
 魏、韓、趙が斉を攻めて桑丘に至った。
(『史記』韓世家の記述。田敬仲完世家では言及なし?)

・前344年
 ・斉侯の田因は自ら「斉王」を名乗った。(斉の威王)
 ・「戦国七雄」の一つに数えられたが、前221年、秦の王賁・蒙恬らの斉攻略により滅亡した。

 

 

5 前史

(1)陳完(陳敬仲、田敬仲)
戦国七雄の田斉の祖

・政争に巻き込まれた公子完が斉に亡命(斉桓公14年)  
 以後、母国の名を氏として陳完と呼ばれる

・前671年?
 「完の斉に奔るや、斉の桓公の立ちて十四年なり」
 (『史記』田敬仲完 世家)

・斉桓公が陳完を田の地に封じた(?出典?)or陳と田の音が通じるためとも。
・子 陳穉、その子 陳湣、その子 陳須無


(2)陳無宇(陳桓子、田桓子)

・陳の亡命公子陳完(陳敬仲)の子孫、陳須無の子(陳完から5代目)

・前539年
 ・政敵の欒施と高彊(共に公族につながる)を失脚させ、魯に追放すると、景公から両氏の領地財産を与えられるが、晏嬰の勧めでそれらを辞退する。
・穆孟姫がそれを哀れみ、交通の要衝の土地を与えられる、経済的に強大化。
・晏嬰は、斉はいずれ陳氏の手に落ちることを予見した。

・この頃、陳は楚の霊王により滅ぼされた。(前531年)


(3)田乞(田釐子)
・陳無宇の子、陳完から6代目

・自領民を施す際には大型の枡を用い、課税する時は小型の枡で取り立てて領民の負担を軽減することで、自領民ばかりか斉国民全体の信頼も集めていった。
・晏嬰に警戒された。

・人気取り
  「田釐子乞、斉 の景公に事え、大夫と為る。其の賦税を民より収むるに、小斗を以て之を 受け、其の粟を民に予うるは、大斗を以てし、陰徳を民に行う。而して景 公、禁ぜず。是に因りて田氏、斉の衆の心を得て、宗族益々彊く、民、田氏を思う」
 (『史記』陳〜世家)
 

・前489年
 ・田乞は大夫たちを率いて(宰相の)高張と国夏を攻撃して両氏を斉から追い出し、10月には晏孺子を退位させた後に暗殺する。
 ・異母兄の悼公を擁立し、斉の宰相となる。

 

(4)田恒(田常、田成子)(前5世紀頃)
 ・『史記』田敬仲完世家は漢の文帝の諱(恒)を避けて「田常」と記載した。左伝は「陳恒」とする。
 
 ・田乞の子。斉簡公のときの宰相。後の「田斉」の端緒を開いた。(とされる。事績が多い)


 ・前481年
  ・他の宰相との政争の中で、田恒は舒で簡公を殺害した。(左伝、哀公14年)
  ・『論語』憲問篇「陳成子、簡公を弑す」
  ・簡公の弟の姜驁(平公)を立てて斉公として即位させた。
  ・田恒は簡公を殺害したことから、諸侯が自分を処断する名目で侵攻してくることを恐れ、侵略した他国の土地を返し、また外交にも努めた。

  「常、既にして簡公を殺す。諸侯の共に己を誅せんことを懼れ、 乃ち尽く魯・衛の侵地を帰し、西は晋・韓・魏・趙氏と約し、南は呉・越 の使いを通じ、功を修め、賞を行い、百姓に親しむ。故を以て斉、復た定 まる。」
  (『史記』陳〜世家)

 ・左伝、哀公15年「冬、齊と平ぐ」「(陳)成子、之を病え、乃ち成を帰す」
 

 ・刑罰を下す権限を独占して、他の有力氏族を粛清し、独裁権を確立した。
 ・安平より東は瑯琊にいたるまでを自らの封邑とし、平公の食邑より広大な領地をもった。

 「田常、斉の平公に言いて曰く、「徳施は人の欲する所なり。君、其 れを行え。刑罰は人の悪む所なり。臣、請いて之を行わん。」之を行いて 五年、斉国の政、皆田常に帰す。田常、是に於いて尽く鮑・晏・監止及び 公族の彊き者を誅し、而して斉の安平自り以東琅邪に至るまでを割き、自 らの封邑と為す。封邑は平公の食む所より大なり。」
 (『史記』陳〜世家)

 

 

(5)田盤(田襄子)
・田恒(田成子)の子、斉の宣公のときの宰相
・兄弟や一族を斉の大夫にした。
・晋の趙無恤・魏駒・韓虎らが智瑶を攻め滅ぼして、智氏の領地を三分すると、趙・魏・韓と使者を通交させ、斉の外交関係を安定させた。

「襄子、其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為さしむ。三晋 と使いを通じ、且に以て斉国を有たんとす」
(『史記』田敬仲完世家)

・子 田白(〜前411)、その子田悼子(〜前405)
・田白の子が田和(田斉の太公)

 
6 文献等

史記』田敬仲完世家
(新釈漢文大系 巻86 史記 六 世家 中)


訓読参考 中国史春秋戦国の部屋
http://gongsunlong.web.fc2.com/

田敬仲完世家
http://gongsunlong.web.fc2.com/denkeityuukan-s.pdf

斉太公世家
http://gongsunlong.web.fc2.com/seitaikou-s.pdf


参考 sanomarekishiのブログ「戦国時代29 東周安王(五) 姜斉と晋の滅亡 前379~376年』
https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/35835555