幸福の追求について どんな仕組みなのか? 実践的幸福論
「あの数馬さま、人という生き物が犬猫牛馬とどう違うかご存知で」 「さてなあ。飯を食い糞をひり、寿命が尽きれば死ぬ。さほど違わぬが」 (米村圭伍『風流冷飯伝』H14)
1 「幸福」とは何か
(1)それは、人生の目的である。
- 人生の目的は合理的に生きることではなく、幸福度(効用)を最大化すること。
- だとしたら、論理的合理性に従うのではなく、幸福をもたらしてくれる進化的合理性(限界効用の逓減)を前提とした上で、よりよい選択・行動を考えるべき。
- 脳が論理的合理性でつくられているわけではない以上、合理的な選択・行動が幸福(効用の増大)を保証してくれるわけではない。
- 幸福とは、直観(進化的合理性)と理性(論理的合理性)の奇妙な綱渡りの中でしか見つからないもの。 (橘玲『シンプルで合理的な人生設計』2023、p72)
(2)その構造
幸福の方程式 H=S+C+V
- 実際に経験する幸福の水準Hは、生物学的な設定点Sと生活条件Cと自発的活動Vによって決定される。
- Sは遺伝的な初期値(幸福を感じやすいかどうか)、Cは外的要因。
- Vは(チクセントミハイの)フロー
- 生物学的な設定点S:幸福感は、性格の中で最も高い遺伝的側面の一つで、双生児研究は、人の平均幸福度における全分散の50〜80%が、人生経験よりもむしろ遺伝的な相違で説明できることを示している。 (ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説 古代の知恵と現代科学の知恵』原書2003、翻訳2011、p.52)
・ヒトにとっての進化適応環境は数百万年の旧石器時代で、ヒトの脳はそこで生存・生殖の可能性を最大化できるように進化・設計されてきた。 (橘玲、p82)
・チクセントミハイ 「フロー体験」こそが幸福 → 遊びでも仕事でもいい
・3つの幸福とは 「成功・お金」(ドーパミン的幸福) 「つながり・愛」(オキシトシン的幸福) 「心と身体の健康」(セロトニン的幸福)
・目標達成ではなく、目標に向かっているだけで脳は「幸せ」になる → ドーパミン、オキシトシン、セロトニン (樺沢紫苑『精神科医が見つけた 3つの幸福』2021)
・お金や社会的地位、美容整形、壮麗な邸宅、権力の座などはどれも、あなたを幸せにすることはできない。永続する幸福感は、セロトニンやドーパミン、オキシトシンからのみ生じるのだ。 (ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』2017)
2 いかにしてそれを手に入れるのか。
(1)目的に応じたプログラムを作る
ホモ・サピエンスの仕組みに沿ったもの。
・人生それ自体は、あなたの思考の産物以外の何ものでもないが、瞑想、認知療法、プロザック(SSRI:選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を通じて、自身を作り直す(感情スタイルを変更する)ことも可能 ・これらは、象使い(理性)ではなく象(情動)に働きかけるので有効 ・プロザック 化学的な近道 (ハイト、前掲書 第2章 心を変化させる方法、pp.56-69)
・我々は意志の力では生きていない。脳と環境の相互作用によって、自動的に体を動かされ、全て事前に決まっているプログラム通りに反射を繰り返しているだけだ。意志で作っているように見えても、全ての行動は環境からの刺激に対する、反射なのである。 (妹尾武治『未来は決まっており、自分の意思など存在しない。 心理学的決定論』2021、p53)
・認知を変えるより環境を変える(転校や転職、転居する)ほうがうまくいく可能性が高い。これが「合理的に成功する」考え方の基本になる。 (橘玲、前掲書p96)
(2)具体策 どうやって幸福感を増やすのか
「フロー状態」をもたらすものならなんでもいいのではないか?スポーツ、読書、ギャンブル…ゴールは同じ。
・自分で選ぶという「自己決定感」は幸福感に直結する。 (シーナ・アイエンガー『選択の科学』2013)
・楽器演奏などの「能力のギリギリを試させられる」タスクは他のことを考える余裕を消し去り、完全に没頭するフロー状態をもたらす。フロー状態の最中には集中していて気づかないが、後から振り返って「幸福だった」と気づく。 (シェリル・サンドバーグほか『Option B』2017)
3 べからず集 仏教は幸福をどう見ているのか。
よそに求めてはいけない?
・若し人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。 (入矢義高訳注『臨済録』岩波文庫、p198)
・(『サピエンス全史』の)ハラリいう仏教の到達点「真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係」感情に重きをおけば強く渇愛することになる。ブッダの教えは「外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめること」 (佐々木閑、宮崎哲弥『ごまかさない仏教』2017)
・生きることは本質的にすべて苦しみであって、楽しみはその上に浮かぶ儚い泡のようなもの。その生きる辛さを自分の知恵で解消しろと釈迦はいうわけです。 (佐々木閑、大栗博司『真理の探求 仏教と宇宙物理学の対話』2016、p144)
・科学も仏教も生きる意味を与えない。ならばどうする? ・(大栗)宇宙そのものに意味がないとすれば、生きる目的は最初から与えられているわけではありません。目的や幸福感は自分で見つけるしかないでしょう。 (佐々木、大栗、186)
・大乗『涅槃経』の独自の教え 「如来常住」「一切衆生悉有仏性」 →全ての人が条件さえ整えば、外から誰かに助けてもらわなくてもブッダになることが可能である。 (佐々木閑『大乗仏教 ブッダの教えはどこに向かうのか』2019)
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。 譬えば水の中にいて、渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて、貧里に迷うに異らず。 (白隠禅師坐禅和讃 第二節)
此のとき何を求むべき、示寂現前する故に、 当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり。 (白隠禅師坐禅和讃 第七節)
4 先賢の教え
「私にパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」(エピクロス) 願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ(西行)
・李白「春日酔起言志」 (春日 醉ひより起きて志を言う)
世に処(を)るは大いなる夢の若し 胡為(なんすれ)ぞ其の生を労せんや
・一休宗純「羅漢、淫坊に遊ぶ図 二首」 羅漢出塵、識情無し 淫坊の遊戯(ゆげ)、也(また)多情 那辺は非矣、那辺は是 衲子(のうす)の工夫、魔仏の情
・白居易「老夫」
世事 心を労するは富貴に非ず 人生の實事は是れ歓娯
・唐 普化禅師 明頭来や 明頭打 暗頭来や 暗頭打 四方八面来や 旋風打 虚空来や 連架(れんぎゃ)打