【調べメモ】春秋時代の「三家分晋」について

1 「三家分晋」とは

  • 周の諸侯国であった晋から趙・魏・韓の三国(三晋)が独立(周王により諸侯認定)したこと。
  • 晋公室の衰退→六卿の勢力争い(前453決着)→三晋による公室領土の分割(前434)→周の威烈王による諸侯認定(前403)と展開

2 周威烈王はなぜ三晋を諸侯として認定したのか

(三晋はどうやって周王に認定させたのか)

(1)三晋が斉康公を巻き込んで外圧をかけた?

 (田斉と相互に運動した?)

(2)田氏はなぜそうする必要があったのか?

  • 三晋が智伯を滅ぼしたあたりから使者をやり取り。
  • 田氏は、斉の最大の氏族として、智氏のように滅ぼされないためには、もはや簒奪するしかなかった?
  • そのためには三晋を諸侯に押し上げるしかなかった?

〈経過〉 * 斉では、前481年、田恒が簡公を殺し、その弟の平公を擁立 * 晋では、前497年に范・中行氏が追放された。 * 田氏はその後、斉国内の有力氏族(鮑氏や晏氏など)を粛清(晋の状況と似る) * 晋では前514年に魏舒(魏献子)が公族の祁氏と羊舌氏を滅ぼし、六卿の時代へ。

  

3 展開

(1)六卿の争い(六卿のうち四氏がのこる范・中行を追放)

前497年〜 各氏族が趙氏の内紛に便乗?
  • 六卿の1人の趙鞅がトラブルから邯鄲の大夫を殺そうとしたところ、これと通じていた中行寅・范吉射がかえって趙氏を攻めた。
  • 趙氏は逃げて晋陽に籠城した。
  • (趙氏が叛いたと思った)晋公が晋陽を攻めて包囲した。
  • 残る六卿の荀櫟・韓不信・魏侈は、范・中行と対立していたため、これを攻めた。
  • 晋君が范・中行を敗った。
  • 范・中行は朝歌に籠城した。

 「(晋定公の)十五年、趙鞅、邯鄲の大夫午を使う。信ならず。午を殺さんと欲す。午、 中行寅・范吉射と親し。趙鞅を攻む。鞅、走り、晋陽に保ず。定公、晋陽 を囲む。  「荀櫟・韓不信・魏侈、范・中行と仇を為す。乃ち兵を移し、范・ 中行を伐つ。范・中行、反す。晋君、之を撃ち、范・中行を敗る。范・中 行、朝歌に走り、之に保ず。韓・魏、趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を 赦し、位に復す。」[晋世家]

 「晋の定公十五年、宣子、趙簡子と與に侵して范・中行氏を伐つ。」[韓世家]  

 「晋の定公の十四年、范・中行、乱を作す。」  「十月、范・中行氏、趙鞅を伐つ。鞅、晋陽に奔る。」  「十一月、筍躒・韓不佞・魏哆、公命を奉じ以て范・ 中行氏を伐つ。克たず。范・中行氏、反って公を伐つ。公、之を撃つ。 范・中行、敗走す。丁未、二子朝歌に奔る。韓・魏、趙氏を以て請いを為す。」[趙世家]

・前494年  > 「晋の定公十八年、趙簡子、范・中行を朝歌に囲む。中行文子、邯鄲に奔る。」[趙世家]

・前490年?  ・趙氏が范・中行の籠城した邯鄲を取った。范・中行氏は斉に亡命した。  ・范・中行の残りの領土は晋公室のものとなった。  

 「晋の定公二十一年、簡子、邯鄲を抜く。中行文子、栢人に奔る。簡子又 栢人を囲む中行文子・范昭子、遂に斉に奔る。趙、竟に邯鄲・栢人を有つ。范・中行の餘邑は晋に入る。趙の名は晋の卿なれど、実は晋の権 を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。[趙世家] 「(定公)二十二年、晋、范・中行氏を敗る。二子斉に奔る」[晋世家]

(2)晋公室の衰退(晋公が土地を奪った四氏を咎めるも、返り討ちとなった)

 ・前458年〈笵・中行の追放から30年余り〉   ・知伯が趙・韓・魏とともに(公室のものとなっていた?)笵・中行の土地を山分けにした。   ・晋の出公は怒り、斉・魯の力を借りて四卿を討とうしたが、かえって四卿が出公を攻めた。   ・出公は斉への亡命途上で死んだ。      > ・「出公十七年、知伯、趙・韓・魏と共に笵・中行の地を分かち以て邑と為す。 出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に反き、 出公を攻む。出公、斉に奔り、道に死す。[晋世家]   > ・「知伯、趙・韓・魏と與に尽く其の范・中行の故地を分かつ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に共に出公を攻む。出公、斉に奔り、道にして死す。[趙世家]

 ・同年?   ・智氏は晋の土地をことごとく併合したかったが、まだ行わず、出公の子を次の晋公(哀公)として擁立した。   ・このとき、晋国の政は智氏の決するところとなっており、晋公の哀公は制御できなかった。   ・智氏はついに笵・中行の領地を保有し、(晋国で)最も勢力があった。

  > ・「知伯、尽く晋を并せんと欲するも、未だ敢てせず。乃ち忌の子驕を立てて君と為す。是の時に当たり、晋国の政は皆知伯に決し、晋の哀公、制するす所有るを得ず。知伯、遂に笵・中行の地を有ち、最も彊し。[晋世家]

(3)智氏の滅亡〈智氏が最大勢力となってから5年後?〉

 ・前455〜453年 晋陽の戦い(三晋が最大勢力であった智氏を滅ぼす)    ・国内の最大勢力となった智氏は驕り、韓・魏に土地を要求した。趙は与えなかったので、これを攻めた。(晋陽の戦い)  ・前453年 三晋は智氏を滅ぼし、その土地を分けた。    > ・「知伯、益々驕り、地を韓・魏 に請い、韓・魏、之を與う。地を趙に請う。趙、與えず。其の鄭を囲みしときの辱めを以てなり。知伯怒り、遂に韓・魏を率いて趙を攻む。趙襄氏懼る。乃ち奔りて晋陽に保ず。」

[趙世家]

 ・> 「定王十六年、三晋、智伯を滅ぼし、其の地を分かち有つ。 」[周本紀]   ・> 「(晋の)哀公四年(前453年)、趙襄子・韓康子・魏桓子、共に知伯を殺し、尽く其の地を并す。」[晋世家]  ・> 「韓・魏、與に謀 を合せ、三月丙戌を以て、三国反って知伯を滅ぼし、共に其の地を分かつ。」[趙世家]  ・> 「韓康子・趙襄子と共に伐ちて智伯を滅ぼし、其の地を分つ」[魏世家]  ・> 「(韓)康子、趙襄子・魏桓子と共に知伯を敗り、其の地を分かつ。地益々大なりて、諸侯より大なり。」[韓世家]

・前439年 晋公室の領地が二邑のみとなる  ・> 「幽公の時、晋、畏れ、反って韓・趙・ 魏の君に朝し、独り絳・曲沃を有つのみ。餘は皆三晋に入る。[晋世家]      ・前404年 長城の戦い〈智氏の滅亡から49年後〉  ・三晋が斉と戦い、勝った。   > 「晋の烈公は長城の戦いの戦果である斉の捕虜や首級を周の威烈王に献上し、斉の康公や魯の穆公・宋の悼公・衛の慎公・鄭の繻公をともなって威烈王に朝見した」[清華簡『繋年』第22章] [『水経注』汶水所引『竹書紀年』も同内容?] [Wikipediaより]

(4)三晋が諸侯に認定される〈智氏の滅亡から50年後〉

 ・前403年 周王が三晋を諸侯として認めた。     > ・「威烈王二十三年、九鼎震す。韓・魏・趙に命じて諸侯と為す。 」[周本紀]

  ・「烈公十九年、周の威烈王、趙・韓・魏に賜い、皆命じて諸侯と為す」[晋世家]   ・「韓・魏・趙皆相立ちて諸侯と為る」[趙世家]   ・「(魏文侯の)二十二年、魏・趙・韓、列して諸侯と為る。」[魏世家]   ・「(韓景侯)六年、趙・魏と倶に列して諸侯と為るを得たり。」[韓世家]   

 ・前389年 田斉も諸侯となる   「太公、魏の文侯と濁澤に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯、乃ち使いをして周の天子及び諸侯に言わしめて、 斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請う。周の天子、之を許す。」  [田敬仲完世家]

 ・前376年? 晋公室の滅亡     > ・「公二年、魏の武侯・韓の哀公・趙の敬公、晋の後を滅ぼして、其の地を 三分す。静公、遷りて家人(庶民)と為る。晋、絶えて、祀らず」 (晋世家)

  ・「十一年、魏・韓・趙共に晋を滅ぼし、其の地を分かつ。」(趙世家)   ・「(魏武侯)十一年、韓・趙と晋の地を三分し、其の後を滅ぼす。」(魏世家)   ・「哀公元年、趙・魏と晋国を分かつ」[韓世家]   ・(田斉の威王の)三年、三晋、晋の後を滅ぼして、其の地を分かつ。」[田敬仲完世家]

4 文献等